2017-01-01から1ヶ月間の記事一覧
(写真は、銃眼と矢狭間のある土塀(城郭様式)の「開雲寺」) 「石橋宿」に入ると、旧日光街道(国道4号)沿いの石橋の 信号の手前の辺りが、「石橋宿」の中心だったらしいですが、 現在はその痕跡すらありません・・・ 「石橋宿」は、総軒数79軒で、う…
(写真は、慈眼寺の布袋様の石像) 小金井宿は、日光街道の”町名ルール”の通りに、日光に 近い方から順に、上町、中町、下町の順に並んでいます。 小金井宿は、もともとは、ここの北方の「金井村」でしたが、 1604年に、村が現在の場所に移動した際に、”小”…
(写真は、青木本陣の門) 「新田(しんでん)宿」は、幕府の直轄領である天領で、 宿場町の人口244人と、日光街道では最も小さい宿場でした。 国道4号と並行していた旧日光街道は、JAの角で、国道4号 に合流します。 このJAの辺りから、国道4号沿い…
(写真は、小山市役所の前庭にある「小山評定跡の碑」) 旧日光街道の県道265号を進み、「小山(おやま)宿」に 入ると、左手に次頁の写真の「持宝寺」が見えて来ます。 写真の「梵鐘」は、1793年(寛政6年)に鋳造された梵鐘 で、鐘の銘文中に孝謙天皇の文…
(写真は、「乙女河岸」の千石船のモニュメント) 野木宿から約7キロ歩いて間々田(ままだ)宿に入りました。 国道4号の旧日光街道を進み、間々田駅入口の信号を左折 して、「乙女河岸」へ向かって歩いて行きます。 右手に乙女小学校を見ると直ぐに桜並木の…
(写真は、野木神社の乳房の形をした奉納物) 古河宿を出て、旧日光街道を更に進んで行くと、左手に「野木 神社」の鳥居があったので、その参道をどんどん歩いて行きます。 かなり長い参道で、その先に、二の鳥居と三の鳥居がありました。 「野木神社」の社…
(写真は「鷹見泉石 記念館」) 旧日光街道沿いの「古河(こが)宿」と書かれた常夜灯の辺り から、古河宿に入って行きます。 常夜灯の脇の「松並木のある風景 日光街道」と書かれた 説明板によると、 「江戸時代、ここには、約5キロにわたって松並木が整然…
(写真は、「静御前の墓」の説明板に描かれた「静御前」の絵) 栗橋宿は、度重なる水害や利根川の改修工事により、 何度も宿場町の移転を余儀なくされたため、残念ながら 宿場町の雰囲気は何も残っていません。 取り敢えず、栗橋宿に残る唯一の遺構「静御前…
(写真は「中田の松原」)利根川に架かる利根川大橋を渡って、堤防を下り切った角に、「房川渡し(ぼうせんわたし)と中田関所跡」の説明板がありました。しかし、文字の色があせてしまって読めません・・・仕方なく、私の手元の案内書を見てみると、中田宿…
(写真は、無縁仏の供養塔を積み上げてある正福寺の境内) 「幸手(さって)宿」は、「日光街道」と「日光御成り道」の合流点の宿場町として栄えました。 また、権現堂川を利用した江戸との間の船便の交通の要所 だったので、河岸には廻船問屋が軒を連ねてい…
(写真は、杉戸宿の「時代行列」で、「日光例幣使」役の「虻川美穂子」)旧日光街道は、単調な直線の国道4号を延々と歩いたのちに、国道4号から左へ分かれて杉戸宿へ入って行きます。すぐ右手に小さな公園があり、杉戸宿の案内板がありました。杉戸宿の町…
(写真は、春日部宿の名物和菓子「あんびん」) 「春日部(かすかべ)」宿は、江戸時代には「粕壁(かす かべ)」宿と書きました。 今でも、地名や小学校名には「粕壁」が残っています。 春日部宿は、江戸時代には、古利根川で江戸とを結ぶ船の 交易路として…
(写真は「塗師屋」) 越谷宿の端の元荒川の辺りには、蔵が家の横にある立派な うだつの付いた上の写真の「塗師屋」(ぬしや)の建物が 残っています。 しかし、越谷宿は、明治の大火で町のほとんどを焼失して しまったため、残念ながら、昔の面影は全く残っ…
(写真は、草加名物「草加せんべい」) 1606年、幕府の命を受けた大川図書(ずしょ)が、それまで 大きく東に迂回していた日光街道の「千住宿」~「越谷宿」の 間を一直線で結ぶ草加新道を造りました。 なるほど、そうか~!(草加!)、それで、日光街道は…
(写真は、江戸時代から続く接骨院「名倉医院」) 千住大橋を渡り、日光街道の一番最初の宿場だった千住宿に 入って行きます。 千住宿に入ると、旧日光街道は、「中央卸売市場・足立市場」 のところで、国道4号(日光街道)と分かれ、右手の細い道を 直進し…
(江戸時代の日本橋の様子を描いた「熈代勝覧」絵巻 ) 東海道、中山道のスタート時に続き、三度目の日本橋です。 このところ猛暑日がずっと続いていますので、少し暑さが 和らぎそうな日の午前中を選んで、日本橋からの日光街道 歩きを、細々とスタートしま…