
(写真は、日本橋三越の天女像)
股関節炎もほぼ良くなり、コロナの県境をまたぐ移動も解除
され、これから、いよいよ、五街道踏破の最後となる
甲州街道に挑戦します。
股関節炎の再発を防ぎ、熱中症にならない様に、午前中2時間
だけのウォーキングで、尺取虫の様に、少しづつ甲州街道を
進んでいくつもりです。
5街道の中で、甲州街道は、他の4街道とは異なる特殊な
位置づけでした。
鉄砲隊」、八王子で「千人同心」を従えて甲府城に入る
手筈でした。
しか使用させませんでした。
従って、下諏訪から甲州街道を利用すれば、最短距離で江戸へ
もらえず、下諏訪から、中山道を、軽井沢、高崎、大宮と
大回りさせられました。
で、一気に、徳川の本拠地の駿府(静岡)に抜けることも
出来るからでした。スタート地点は、今回も日本橋です。

4度目の「日本橋」です。
日本国道路元標、東京市道路元標、高札場跡、晒し(さらし)
については、これまでの3回のブログでほとんど書き尽くして
しまいました・・・
従って、今回は、少し趣向を変えて、「日本橋三越」から
スタートしようと思います。

上の浮世絵は、名所江戸百景の「する賀てふ」(駿河町)で、
です。
ご存じの様に、現在の「三越」の名称は、この江戸時代の
呉服商「"三"井"越"後屋」を略したものです。
下は、前頁の浮世絵と同じ位置からの現在の写真で、
左側が「三越」で、右側が「三井本店」です。


玄関のライオン像を見ながら、三越本館に入ります。
次頁の写真の「天女の像」は、三越本館1階の中央
ホールに設置されており、11メートルもの高さが
ある像は、吹き抜けの5階に届きそうです!

絢爛たる色彩で圧巻です!
として設置されました。

日光・奥州街道です。
を右折して、大手町方面へ歩いて行きます。

呉服橋の交差点を右折して、直ぐ近くの「一石橋」に
行きます。
一石橋のたもとに、次頁の写真の「一石橋迷子しらせ石標」
があります。
江戸時代には、この辺りから日本橋にかけては盛り場で、
迷子が多かったそうです。
これは、迷子になった子供を捜している人が、子供の特徴を
書いた紙を、この石柱の左に貼りつけておくと、子供を
見つけた人が、石柱の右にその見つけた場所を書いた紙を
貼りつける、というものです。
次頁の写真の石標の正面(写真では右側)には 「満よひ子
(迷い子)の志るべ」 と彫られています。

石標の左側には、上の写真の様に 「たづぬる方」 、石標の
右側(向こう側)には、 「志らす類(知らする)方」 と
彫られています。
一石橋から永代通りに戻り、東京駅へ向かいます。
甲州街道は、次頁の写真の東京駅の中の「丸の内側への通路」
と重なります。
へ直進していました。

22年も通勤した懐かしい大手町界隈を歩いて行きます。

上の写真の「日本工業倶楽部会館」は、江戸時代に勅使の供応
上野介が対立した因縁の場所です。
知らなかったなあ~!

上の写真は、「大名小路」です。
そうです。
大手町に勤務しているときは、歴史に関心がなかった
こともあり、身近に、大名小路や伝奏屋敷があった
ことなど全く知りませんでした。


和田倉門に突き当たりました。
